百人斬り

いつも読ませていただいている西村幸祐様の酔夢ing Voiceに百人斬り訴訟についての記事が出ています。この記事の本筋とは外れますが、「百人斬り」という表現自体がもういかにも時代劇的、フィクション的で、当時この東京日日新聞の記事を見た人は「遠野川に河童出現」という記事と同じレベルのリアリティしか感じていなかったのではないでしょうか。
というのも、日本刀というのは、その象徴性や製造技術・操作技術の発達においては括目すべきものですが、戦闘での有効性はそれほど高くないのです。当時の一般的日本人がこのことをどれくらい知っていたかはわかりませんが。合気道の開祖である植芝盛平翁の経験談として、こういうものが残されています。「日本刀は、3人も斬れば刃こぼれと油で使い物にならなくなる。あとは、斬るのではなく突くことしかできない。」出典も忘れましたし、原文もこんな文章ではなかったと思いますが、趣旨としてはこんな感じです。昭和期の伝説的武道家である植芝翁ですらこうなのですから、向井・野田両少尉がどれだけ達人だったとしても、(いや、熟練していればこそ)「百人斬り」という発想すら浮かんでこないでしょう。
話がずれていってしまいますが、剣術を中心とした武術でも、この日本刀の弱点は意識されています。私が習ったことのある「鹿島神流」という武術では、初心のころは「斬る」動作を中心に学びますが、実戦を意識した型では、押し倒す・組み伏せる・突くといった技法が中心になっています。